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2009/05/06

ラストエンペラーの弟「溥傑」って、「天切松闇語り」に出ていた話かな?

たしか清朝の皇族と政略結婚させられる話があったと思うんですが・・・
白雲木が見ごろ…ラストエンペラーの弟・溥傑の千葉の旧邸 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

白雲木が見ごろ…ラストエンペラーの弟・溥傑の千葉の旧邸 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

 中国・清朝最後の皇帝、愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)の弟の溥傑(ふけつ)(1907~94)が新婚時代を過ごした千葉市稲毛区稲毛の旧邸で、かつて宮中にしか植えることが許されなかったといわれるハクウンボク(白雲木)が見ごろを迎えている。

 溥傑の妻、浩(ひろ)さんが、当時皇太后だった貞明皇后から「日中をつなぐ新しい命の花を咲かせてほしい」と贈られた種を親族が育て、10年目の今年、初めて満開となった。

 溥傑は37年4月、旧侯爵・嵯峨家の浩さんと結婚した。陸軍歩兵学校に通うため、稲毛の浅間(せんげん)神社脇にある一軒家で新婚生活を送った。

 満州国の皇帝となった溥儀に跡継ぎがなかったため、関東軍が画策した政略結婚だったが、夫婦仲は良かったといい、二人が仲むつまじく肩を組んでいる写真も旧邸に残っている。

 日中戦争が発生し、同年9月、溥傑は満州国の首都・新京(現在の吉林省長春市)へ戻った。浩さんも翌月、夫の元へ向かうことになり、貞明皇后にあいさつに赴くと、赤坂御所に植えられている白雲木から採った3粒の種を手渡されたという。

 その後、溥傑一家は、満州国崩壊で離ればなれになった。溥傑はソ連での抑留と、中国での戦犯管理所暮らしを経て、16年ぶりに北京で妻子と再会した。晩年は日中友好に尽力し、94年2月に亡くなると、浩さんと長女の遺骨がまつられている山口県下関市と北京に分骨された。

 旧邸はその後、市に買い上げられ、97年から「ゆかりの家」として無料で一般公開されている。

 次女、福永コ生(せい)さん(69)によると、溥傑夫妻は「稲毛での生活が一番楽しかった」とことあるごとに言っていたといい、ゆかりの家の一般公開を記念して、自身が育てていた白雲木の苗木を寄贈した。(「コ」は女ヘンに樗のつくり)

 苗木は裏庭に植えられた。ゆかりの家のガイドボランティアをしている同区小仲台の奥井貞男さん(68)によると、3年前からこの季節に花を付けるようになり、今年、初めて満開となったという。

 花は、スズランのような小さな白い房状で、雲のように連なっていることからこの名が付いたという。コ生さんは「白雲木を見て、両親の日中友好への思いをしのんでほしい」と話している。

 ゆかりの家についての問い合わせは、043・248・8723へ。

(2009年5月6日12時32分 読売新聞)


これの「王妃のワルツ」というお話で出ているようです。確か、読んだ記憶があるものの手元にすぐ本が出てこないので未確認です。

この小説の中の話は、(多分)結婚に乗り気ではない浩が黄不動と駆け落ちをするような話だったと思います。だけど、すんでのところで溥傑が表れて愛を示し、浩も受け入れたという結末だったはず。

関東軍が画策した政略結婚だったが、夫婦仲は良かったといい

ということも踏まえてのお話だったんですね。ちょっと感動。

場所は千葉県千葉市稲毛の浅間神社のすぐ近くです。


大きな地図で見る

この浅間神社の左下に三角形の土地がありますけど、そこです。今度行ってみようと思います。近場の方も是非!
 


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